お仕事中にこっそりどうぞ

仕事中にこっそりと読むブログです。一息つくのにちょうどいい、でもちょっと帰り道に思い出してしまうようなものを書きたいと思っています。楽しんでいただければ幸いです。

嘘がばれる人

嘘はばれる。
必ずかどうかは置いておいて、嘘をついた時点で相手に見透かされているか、のちに本当のことが知れ渡る、と思っておくべきだろう。
嘘をつこうとする瞬間に、「この嘘はいずればれて、きっと顔を赤くする日が来るんだろうな」くらいには覚悟しておくべきだ。
でも、そう思っておけば、あとで笑いに昇華できたりもする。

 

これまでの経験から、僕には嘘をつくときの心得がある。
それは、「嘘をつかないこと」だ。
何を当然のことを、と思うだろうが、言葉通りの解釈には取らないでほしい。
嘘はつく。しかし、それは嘘ではなくて、本当のことだと「信じ込んで」相手に伝えるということである。

 

例えば、会社を休む理由として、嘘をつくとしよう。
単純にずる休みをしたいけど、ストレートには言えるわけがない。そうだ、風邪をひいて熱があることにしよう。
早速、会社に電話をしようと思う。
でも、ここでひとつ考えなければならない。
それが週の半ばの水曜日だとする。すると、明日は出勤するわけだ。風邪を理由にすれば、すぐに完治するわけがない。次の日も咳は出るし、鼻水も出る。鼻声にだってなるだろう。
だったら、熱だけにするべきだ。

 

と、まあ、普通の人ならこれくらいのことは考えるはずだ。
でも、僕は違う。
実際に熱をはかる。もちろん、平熱だから36℃くらいだ。でも、僕はそれを39.1℃として見る。いや、思い込む。そして医者にも「行ったつもり」になる。医者と熱について「会話したつもり」になる。処方箋をもらい、「薬を持って帰ってきたつもり」になる。そして次の日、「病み上がりになったつもり」で出勤する。
この「つもり」すべてを、僕の妄想力によって、実際にあったことにしてしまうのだ。

 

みんな、嘘はばれないと思っている。
よくもまあ嘘をついて、何の準備もせずに平然としてられるものだ。
次の日に上司から、「医者からなんて診断されたの?」「薬は何をもらったの?」と聞かれたら、「そのつもり」になって準備していないと、答えることはできない。
「つもり」を経ていれば、そこにエピソードが生まれる。「医者に診てもらっているとき、こんなこと言われましてね」「病院の帰り道、車のなかで妙にお腹が減ってコンビニで肉まん3個も買っちゃいましたよ」なんて話ができる。(僕はここでさらに「本当に3つとも肉まんを買うだろうか?ひとつはピザまんを選ぶはずだ」と、買ったつもりになって考える)
ここまでくれば、嘘の上塗りなんかじゃない。だって、僕にとっては実際に起こったことなんだから。

 

先日、嘘がばれる瞬間に立ち会った。
とある僕の友達の誕生日に、仲間10人ほどが居酒屋に集まって飲んだときのこと。
まだ20代の若い嫁さんを連れてきていたA君が、とあるエピソードを話し始めた。
それは、仲間の一人のBがA君の誕生日に送ったプレゼントのことだった。
A君はその場にいたBを指さしながら「こいつ、俺らの夫婦生活を充実したものにしてほしいって、電マをくれてさ」。電マとは、言わずもがなハンドマッサージ器のことで、今やアダルトグッズと化したマッサージ器具のことである。
「それでさ、俺、それもらったの忘れちゃっててさ、放置してたんだよ。でね、俺んちにBがきた時に、電マのこと思い出してさ」

 

A君は嫁とBの前で袋にしまってあった電マを出したそうだ。
「こんなの、俺ら使わねえよな」
「そうだね」と、嫁は照れているのか苦笑い。
A君はそんなやりとりをしながら、スイッチを入れたそうだ。
「………あれ? 動かないな」
「電池はいってる?」とB。
「いや、だってもらったときに動かしたじゃん。あのときはスイッチはいっただろ」
一応、電池を確認してみる。しっかりと入っていた。
そのとき、A君は気づいたそうだ。嫁の耳が赤くなっていくのを。
「………ねえ、ひょっとして使った?」
もうそのときには、嫁の顔は火がついたように紅潮していたそうだ。

 

「こいつさ、俺がいない間に、電マが壊れるまで一人で使ってたんだよ!」
僕を含め、その場にいた一同は大笑い。嫁はというと、また顔も耳も真っ赤にして、テーブルに顔を突っ伏していた。
なんと誰も傷つかない嘘だろう。
笑いが生まれるような、ばれてもいい嘘が、ほどよくちょうどいいのかもしれない。
嘘をあばかれたとき、チャーミングに見られる人こそ、本物の「嘘の天才」なのだろう。

“後悔”にすら興味のない人

 先日、古い友人と赤坂の居酒屋で飲んだ。
友人と言っても、生まれ故郷も違い、育った土地も違う。
以前の職場で、過酷な労働環境をともにし、一緒に日々を戦った戦友とも、同志とも言える人だ。

 

そんな想い出を共有する人だからこそ、なんでも相談できるし、どんな話題でも持ち出せる。
職場の愚痴や他人の悪口などのくだらない話ではなく、人生観や将来の展望、エロスや宗教観などがいつも議題としてあがる。

 

その日も、やはり話題は多岐にわたった。
そして、僕が人に対してつい劣等感を持ってしまうこと、人生に誇りを持てないことなど、彼からお説教をいただく件になった。

「君はね、いろいろと決めつけが多いんだよ。あれをやったら道徳に反する、これをしたら人に迷惑がかかる。そりゃ迷惑をかけないにこしたことはないけど、人はそんなに優れた生き物じゃないよ」
普段からちゃらんぽらんに生きている人間なら速攻で反論するが、彼に言われると納得させられてしまう。

 

彼はいまの職場でも戦っている。
親族が経営するゴルフ場の経営に携わり、内部の腐った連中、いわゆる「私腹のみ肥やしたい系」の人たちとバトルの真っ最中だ。
たちが悪いことに、敵対勢力が親族であり、彼はほとんど一人で孤軍奮闘している状態。しかも彼はストレスが体にもろに出てしまう体質なのだ。これまでに精神疾患だけでなく、ヘルニアや肺に穴まで開けてしまっている。

 

そんな彼の唯一の救いが、一緒に暮らしている恋人の存在だ。
僕も彼女には会ったことがあるが、これがまた変わっている。
まず人と交流を持つことが大嫌い。友達もあまり作らず、子どももつくりたくはない。ただただ酒だけを愛しているという、30過ぎの女性としてはかなりの変わり者である。

 

そんな彼女の変わり者っぷりを象徴するエピソードがある。

 

以前、友人が3.11の震災の時に、割と福島から近い場所に住んでいたこともあり、いざ原発が爆発した場合を想定して、逃げる準備をしようとした。
「とりあえず避難できる準備だけはしておこうよ」
彼としては自分ではなく、彼女を思っての行動だった。しかし、彼女は言った。
「なんで?」
その返答に、友人はあっけにとられた。声のニュアンスや、普段の彼女の性格からして、本当に関心がないことが瞬時にわかったそうだ。

 

「なんでって、避難しなきゃいけない時にあわてちゃうじゃん」
「あわてないよ。何にあわてるの? そもそもわたし、いまだってあわててないし」
「いや、手遅れになったら最悪じゃん」
「最悪じゃないよ。いざという時は、いざという時だって」
「そんなこと言っても、俺は心配なんだよ。後悔したくないし」
「死ぬことが怖いってこと?」
「お前が死ぬことが怖いんだよ。わかんない? 俺が後悔したくないんだよ!」
つい声を荒げてしまった彼に対して、彼女の返答は衝撃的だったという。
「後悔しながら死んで、何がわるいの?」

 

このエピソードを聞いた時、僕も衝撃を受けたのをおぼえている。
なんだか、自分がこれまで信じて来た道徳的なことや常識的なことが一瞬で覆された気がした。
そうか。ついつい後悔のない人生こそ正義だと考えていた自分の価値観が、かならずしもすべての人に当てはまるわけではないのか。
友人によれば、彼女は酒以外の何ものにも興味を持たない反面、たんたんと職場に通い、テレビのバラエティ番組を観てよく笑い、ぐっすりと眠るという、楽しそうな毎日を過ごしているという。
おそらく先のことを見据えて何かをおそれ、何かを心配し、未来に一喜一憂することはしない主義なのだろう。
いまこの瞬間が楽しいかどうか。興味があるのはそれだけなのだろう。

 

「後悔しながら死んで、何がわるい」
この言葉には、誰もかれもが救われるような力が宿っている気がしてならない。
赤坂の夜、彼女が発した一言を友人と僕は頭のどこか片隅にぼんやりと思い浮かべながら、また終わらない談議を肴に、うまい酒を飲むことができた。

おバカ丸出しの人

 よく、自分の上司の悪口を言っている人がいる。
 「俺の上司が本当にバカでさ~、知性の欠片もないんだよね」
 その上司に使われて、立場を逆転させることもできない自分の無能さを人に吹聴して回っている姿はとても滑稽だ。

 また、自分の部下を小バカにして酒を飲んでいる人も見かける。
 「ほんっと使えねえんだよ、あれだ、ゆとりだゆとり。親の顔が見てみたいね」
 ひとりの若造に仕事をしっかり教えることもできない指導力のなさを人に聞かせてどうするんだ。「私はバカですよ~!」と伝え回るのはいかがなものか。

 自分の彼女や嫁の悪口を肴にしている人もいる。
 「あいつ、うるさいんだよ。ちょっとキャバクラに行ったくらいで怒って」
 「うちのは家事を全然しないんだよ。もっとしっかりしたいい女つかまえればよかったな」
 これもキツい。伴侶は大抵自分と同じレベルの人間だ。相手をバカにすればするほど、自分のバカさ加減を露呈しているようなもの。もちろん、カレシや亭主をバカにしている人も同じである。

 人間、自分の周りを見てみれば、己の器や人間性がよくわかるもんだ。
 付き合っている人間や勤めている会社、取り囲んでいる環境は自分の写し鏡なのだ。
 それが自分のレベルであり、自分の行いの結果だ。
 環境や人間関係に悪態をつき、罵声を浴びせたとて、鏡に向かっている自分の顔を見て文句を言っているようなものである。はっきり言って、バカ丸出しだ。
 
 先日、酒を飲んだときもそうだった。
 嫁同士も仲のよい、もうほとんど上下関係もなくなった昔からの地元の後輩と居酒屋に行ったときのことである。
 その後輩が少し酔い始めた頃、「実は今度、合コンやるんですよ」と言い始めた。
 ぼくは後輩の嫁とも約10年ほど前から顔見知りであり、仲がよいこともあって、「なんだよそれ。やめとけよ」と言った。
 しかし後輩は「いや、でも、参加する女がけっこうかわいいって話なんですよ。最近、嫁ともご無沙汰ですし、なんかいいことあればなって。正直、嫁とするのって、毎日見てる顔だし、飽きません?」

 実は、ぼくは知っていた。
 後輩の嫁も最近、浮気をしたそうだ。嫁からの情報だった。昔の男とSNSで偶然出会って、後輩とご無沙汰だったこともあり、一夜をともにしたそうである。
 ぼくは後輩の情報も、後輩の嫁の情報も、それぞれに漏らすことはしない。人の夫婦関係に立ち入って、よいことは何ひとつない。
 ただ、自分も同じような過ちは犯すまいと肝に銘じるだけだ。

 飽きた嫁の代わりに他の女を探す。
 ご無沙汰の旦那の代わりに、昔の男に抱かれる。
 言葉だけ聞けば、それぞれ互いにとって、とても合理的な行動をとっている。
 でも、もしぼくがふたりにそれぞれの行動について告げ口をしたとしたら、どちらも烈火のごとく怒り出すことだろう。間違えば離婚問題に発展するかもしれない。
 怒る理由は、ただひとつだ。バカにされたと感じるからである。
 先にバカにしたのは、間違いなく自分のほうなのに。

 人はついうっかり、自分の立場のみを考えてものを言う。
 しかし、自分の立場なんて、人が作ってくれたものばかりだ。
 「飽きた」「バカだ」「無能なヤツだ」
 そんな悪口を言う前に、周りの人にとって少しでも良い写し鏡になれるよう、自分を磨きあげるほうが賢明ではないかと、わたしは思う。